きれいについて、前からずっと、自分は他人にくらべて少し感受性が不足しているのではないかと心配している。
何かを見て人が「きれい」と感嘆の言葉を発する時、自分はあまり感動していないことが多い。
例えば誰かと道を歩いていると、同行者が「あ、きれい」と言う。見ると歩道の脇に小さなハルジオンが咲いている。私はそれを見て、確かに花が咲いているなとは思うが、その美に感動してはいない。思わず感嘆の声をもらすほど感情の変化は起きない。
景色の開けた山岳を行く時、高層ビルから夜景を見る時、人は「きれい」というが、私はむしろ、彼らの「きれい」がどこから来るのかということについて、気になりだした。
「きれい」にはいくつかの種類があるように思う。
- 真新しく汚れがないもの、均一なもの
(買ったばかりの車、沖縄の海、若い女性の肌、洗った後の手、白いハンカチ、しわのないカーペット、モノトーンのコーディネーション) - 整然としたもの
(掃除した後の部屋、整頓された本棚、組体操の列、碁盤の目) - 無駄がなく優雅なもの
(ペン習字のお手本、枯山水、漆器、日本舞踊) - 繊細なもの
(花、アクセサリー、ネイルアート、パステルカラーのコーディネーション) - 対称的、規則的、幾何学的、反復的なもの
(寄木細工、刺繍、ステンドグラス、柄模様) - 雄大で複合的な自然風景
(視野いっぱいに広がる山並み、ところ狭しと生える森の木々、水面に映る雲々、入り組んだ海岸線、花畑) - 光るもの、コントラストが高い状態
(宝石、電飾、磨かれた金属やガラス、星、夕焼け) - カラフルなもの、鮮やかなグラデーション
(虹、玉虫、フルーツ盛り合わせ、原色のコーディネーション) - 艶やかなもの、豪華なもの
(ナイトドレス、シャンデリア、振袖、ベリーダンス)
当然これらの条件は排他的ではなく、境界はあいまいだ。また「心がきれい」のように比喩的に言うこともあるが、ここでは視覚的な特徴に限定している。
上記のような条件を複数満たしているものほど、人は「きれい」を感じるようだ。
例えば満天の星空は、繊細で反復的で雄大で光っている。
上記の条件をさらにまとめると、大きく次の三つになるのではないか。
- A. 一定している
- B. 有機的である
- C. 高コントラストである
一定しているというのは、淀みがなく全体が限定的なパターンで成っていること。有機的であるとは、複合的で各部分が密接に結合して影響しあっていること。高コントラストであるというのは、視覚に対して強い刺激を与えていること。
不思議なのは、A と B が逆のベクトルを持っているように思われることだ。
例えば A にあたる「白いハンカチ」は、均質で要素が少なく「無」に向かっている。一方 B にあたる「雄大な山並み」は、ランダムで要素が多く「有」に向かっている。
そして C はといえば、なぜか A とも B とも相性がよい。白いハンカチは眩しい光を放っているし、雄大な山並みはその稜線によって天と地をはっきり分けている。
だから「きれい」の条件は、「A + C」か「B + C」でよく満たされると考えられる。
A が醸し出す純粋さは、おそらく、我々が本能的に感じ取る魅力だろう。森にいくつものリンゴが生っているとする。しかしそのほとんどは茶色に変色して形もいびつだ。その中にひとつ、鮮やかな赤色をした、形も丸いものがある。我々にはそういうものを発見する能力があるのだろう。自然が多くの物を風化させていく中でときおり存在する小さな宝、エントロピーの増大に抗っている要素 = 我々の栄養となりうる要素を、我々が本能的に識別していることを意味する。そういうものは、周囲に対してコントラストをもって見える。目をひいて魅力的に感じるのだ。
では、B が持っている雄大さやランダムさは何を意味するだろう。まず自然風景について魅力を感じるのは、そのようなものから、人知を超えたエネルギーを感じるからだろう。これも我々の日常的な精神活動に対して高いコントラストをもって目に映る。そしてその裏で、我々は何かのパターンを感じ取っているに違いない。いわゆるフラクタルである。自然が作り上げる形状の多くはフラクタルである。ランダムに見える雲々の形状に、我々は反復的なパターンを無意識に見出している。有機的であるということは、複雑であると同時に、全体のイメージが視点に依存しないという一種の単純さを意味する。そしてその単純さは、自然界の様々なものに形を与え、エントロピーの増大に抗っている。我々は、我々を生かしているこの謎のフラクタル性に対して、本能的に魅力を感じているのだ。
「きれい」の感受性とは、この宇宙でエントロピー増大に抗っているもの、そのような貴重なものを我々が察知するアンテナなのではないだろうか。