左右論序章

Mac の Cocoa フレームワークには First Responder という概念がある。First Responder は、ユーザーのマウス操作やキーボート操作などのイベントに最初に反応するオブジェクト、つまり現在フォーカスされているUI要素を参照する変数である。ユーザーがアプリケーションを操作してフォーカスが別のコントロールに移ると、First Responder の示す先もそれに応じて変わる。これは GUI におけるポリモーフィズムを実現するための仕組みだ。例えば Finder のメニューバーには「File > Open」という項目があるが、現在フォルダが選択されている時にこれを実行するとそのフォルダが開き、アプリケーションアイコンが選択されているとそのアプリケーションが起動し、ドキュメントファイルが選択されていると適当なアプリケーションが起動してそのファイルを読み込む。このように選択されているものによって処理が異なるのだが、メニュー項目の「Open」が行っているのは、現在の First Responder に対して “Open” というメッセージを投げることだけである。フォルダ、アプリケーション、ファイルなどはそれぞれ種類の違うオブジェクトだが、いずれも “Open” というメソッドを持っているので、それぞれが自分の Open メソッドを実行して、それぞれの振る舞いをするというわけだ。Open 以外にも、Close、Save、Print、Select All、Find、Undo など標準的な名前のメソッドを各アプリケーションが実装していれば、キーボードショートカットも含めて、システム全体で操作が一貫する。

GUI におけるポリモーフィズムというのは、インタラクションデザインの上で重要な意味を持つ。GUI における操作シンタックスの基本は「オブジェクト選択 → アクション選択」である。操作の対象となるオブジェクトが画面に見えていて、ユーザーがそれをマウスなどで選択し、次にメニューなどからアクションを選択する。このシンタックスこそが GUI を GUI たらしめているのであり、CLI との最大の違いはこのシンタックスにある。CLI では先にコマンド(アクション)を指示するが、これはあらかじめユーザーが学習によって記憶しているか、あるいは操作の度にヘルプを参照しなければならない。GUI の最初の行為であるオブジェクト選択は、選択肢が目に見えていてそれを指し示すだけなので、事前の準備はいらない。また CLI においては、コマンドを打った後に引数となるパラメーターを指示することになるが、これもまた頭の中に記憶しているものかもしくは画面に見えている文字列を打ち直すことになるので、認知負荷が高い。GUI においては、コマンド選択はメニューを見ながら行うか、もしくはダブルクリックなどのジェスチャで行うので、認知負荷は低い。その際、ジェスチャやキーボードショートカットなどのグローバルなコマンドは用意できる種類と数が限定的だし、メニューにしてもある程度項目数を絞らないと使い勝手が悪いので必然的に、複数のオブジェクトが共通のアクションを持つことが望ましくなる。そのために、First Responder のような仕組みが役立つのだ。CLI では、システムの拡張はコマンドの追加によってなされるだろうが、GUI では、オブジェクトの追加によってシステムが拡張するのである。

この GUI のオブジェクト指向性は、CLI のタスク指向に対して、よりモードレスである。なぜなら CLI においては、引数を必要とするコマンドを打った直後は、続けて引数を入力することがシステムから期待されている。一方 GUI では、オブジェクト選択は次の行為に対してモードを持たない。ユーザーはアクションを選んでもよいし、他のオブジェクトを選び直してもよい。コンテクストは暗黙的かつゼロコストで切り替わるのだ。

左と右

私は「Modeless and Modal」で、デザインとイデオロギーの関係について書いた。すなわち、デザインの根源的パターンとしては大きくモードレスとモーダルがあるが、モードレスなデザインはリベラルな人々に好まれ、モーダルなデザインはコンサバティブな人々に好まれるというものだ。ただし、ここでいうイデオロギーとは、政治思想そのものというよりも、各人が持っている「システムに関する指向性」であり、不確実性(筋道が決まっているかどうか)に対する生理的反応の違いのことである。不確実なシステムに対してそれを「自由で可能性に満ちていてやる気が出る」と感じるか、「曖昧で非効率でリスキーだ」と感じるか。前者の人間はモードレスなデザインを求め、後者の人間はモーダルなデザインを高く評価する。また、リベラルとコンサバには先天的な脳構造の違いがあるとする説もある。これはトンデモ科学の部類なのかもしれないが、(広い意味での)システムのデザインに対する指向性と合わせて考えると、あり得る話かもしれない。

ところで、左右(さゆう)という言葉があるとおり、左と右は対になった概念だ。日常では、右左(みぎひだり)とも言うことの方が多いかもしれない。辞書で「右」をひくと「東を向いたとき南にあたる方」などと書かれており、「左」をひくと「東を向いたとき北にあたる方」などと書かれているので、右と左には対称性がある。ちなみに「北」をひくと「太陽の出る方に向かって左の方」などとあり、「南」をひくと「太陽の出る方に向かって右の方」などとあるので、これは堂々めぐりになってしまう。左右の概念を言葉にするのは難しい。とはいえ、左右の区別は小さい頃から覚えさせられるものだ。だから我々はこの言葉を気楽に捉えているだろう。

ところが、私はしばらく前からあることに気づいていた。それは、人々が「右」や「左」という言葉を使う時、かなり頻繁に言い間違えているということだ。私は仕事柄、ミーティングの場で、UIデザインをプロジェクターで投影しながら、その表示内容について説明をしたり、説明を聞いたりすることが多い。スクリーンは席から離れているので、画面内のUI要素(ボタンやメニューなど)を指で示せないから、言葉で「右上のボタン」とか「左のリスト」といった言い方をする。その時に、右と左を言い間違えてしまうのだ。私もよく間違えるが、注意して聞いていると、多くの人が、スクリーンを見ながら方向を言う時によく間違えている。何度かのデザインレビューミーティングで、私はこっそり、人々が左右について口にする回数と、間違える回数を数えてみた。すると驚いたことに、人々は、10回のうち7回ぐらいは間違えていたのである。半分以上、間違えているのだ。左上のタブを「右上のタブ」と呼んだり、「右からスライドパネルが出てきます」と言いながら左手で左からパネルが出てくる身振りをしている。これは一体なんだろう。50%以上の確率で右と左を言い間違えるということは、もしかすると、我々が考えている右と左は、実は逆なんじゃないだろうか? 我々が右と思っていた方向は実は左で、左と思っていた方向が実は右なのではないか?

左が右で右が左

示そうとしている方向が右なのか左なのかは、1秒ぐらい考えれば間違えないだろう。けれど無意識的にとっさに言うと、かなり間違える。そうすると、1秒考えて出てくる答えよりも、0.1秒で直感される答えの方が本当なのではないか? 本当は、右と左は逆なのではないか? そんな仮説が立つ。左右には、実は本当の左右と嘘の左右があって、我々は嘘の左右を無理やり覚えさせられてきたのだ。それが、とっさの時に、本当の左右が出てくるのだ。もしそうなら、では、本当の左右はどこから来るのだろうか。おそらく、先天的に持っている空間認知特性と、「右」や「左」という言葉が持つニュアンスが関係しているはずだ。そしてこれはきっと、鏡問題とも関係しているに違いない。

ところで、左右盲(left and right confusion)というものがあるらしい、左右の区別がつきにくい人のことをそう言うようだ。方向としてはわかるけど、右や左といった言葉と結びつけるのが難しいという。ここで書いている左右問題とほぼ同じ悩みである。非常に多くの人がとっさに左右の言葉を間違えるのを見てきたので、度合いは人それぞれだとしても、左右の区別がつきにくいというのは誰にでもあることなのではないか。左右という概念は、我々の認知にうまく合っていないように思われる。

そんなことを考えながら、しばらく人々が左右を言い間違えるのを観察していると、三つほど気づくことがあった。まずひとつ目は、現実の三次元空間において方向を示す時には間違えにくく、二次元上での方向性を示す時に間違えやすいこと。ふたつ目は、その二次元で表す空間が、横書きのレイアウトを持っている時に間違えやすいということだ。横書きのレイアウトとは、例えばプレゼンテーションスライドや GUI の画面である。だから先に書いたような、プロジェクターで GUI 画面を投影し、その中の要素について言及する時は特に間違いやすいのだ。

このふたつの理由を考えると、おそらくこういうことだろう。横書きレイアウトを持つビューポートの中では、左右が、対称性をかなり失っている。文字列は左から右に向かって書かれるので、「左 → 右」という方向性が生まれる。また、情報オブジェクトの配置としても、左上から右下に向かって重要度の順序や階層構造を形づくることが多いため、どうしてもテンスが左方向に偏る。本来対称である左右が非対称になると、嘘の左右が力を失い、本当の左右が台頭してくるのだ。我々の臓器、認知、運動において、左右は非対称なのである。

そして、気づいたことの三つ目は、「右のことを左と言ってしまうことよりも、左のことを右と言ってしまうことの方がずっと多い」ということである。

左は右で右も右

会社の同僚が、デザインレビューミーティングの中で何度も、左のことを右と言い間違えていたので(間違え率90%)、ミーティングの後でその理由をたずねてみた。すると、「左の方が右っぽいんですよね」と言う。そこで「左は右と比べて何が右っぽいの?」と聞くと、「メインぽいです。メインの方が右っぽいです。サブは左っぽいです。」と言うのだ。これは何だか分かる気がした。横書きレイアウトにおいては、左右は非対称であり、左の方にテンションがあるから、左の方がプライマリーディレクションで、右の方がセカンダリーな気がする。ところが「左」と「右」という言葉を比べた場合、「右」の方がプライマリー感が強い。「プライマリーディレクション = 右」であるから、左側を指して「右」とつい言ってしまうのだ。その時に口に出る「右」という概念は、左右二項の片方としての右ではなく、単に「重要な方向」としての右である。だから、右を左と言ってしまうことは少ない。右の方向を意識する時には先に左側というプライマリーディレクションが意識されているので、左右のうちの片方として言葉が選び取られるから、間違えにくい。

要するに、左のことも、右のことも、どっちも「右」と呼んでいるのだ。とにかく二次元における水平軸において、今意識を向けている方向はすべて「右」なのだ。だから「右」というのは、言ってみれば、水平軸における First Responder なのである。「右」は変数であり、常に現在フォーカスしているディレクションをリファーするのだ。

人が「右の〜」といったことを口にしたら、誤解がないように、「あなたが今言った右はどちらの右ですか? 右の右ですか? それとも左の右ですか?」と確認しなければならない。「嘘の方の右ですか? 本当の方の右ですか?」と聞きたいところだが、ここまでの考察を共有していなければわけがわからないだろう。確実性を求めるなら、「あなたが今言った右は、東を向いたとき南にあたる方の右ですか? それとも北にあたる方の右ですか?」と聞くべきなのである。

ちなみにその同僚は、上の会話の後、プレゼンテーションに使う iPad にテプリング(テプリング: 機器の操作面に、使い方の補足説明などを書いたテプラを貼ること)をした。それで間違えることが減ったという。ただし、聞いている者の意識フォーカスがもし「東を向いたとき北にあたる方」にある時に「左」と言ってしまうと、言葉は正しいのに、それは嘘の左であるから、逆の誤解を生む可能性が無きにしも非ずだ。

モードレスとモーダル

次の疑問は、ではなぜ、「右」という言葉が First Responder を表すのだろうかということだ。語感の上で、右の方が左よりも主であるのはなぜなのか。

右が主であるというと、右翼という言葉が浮かぶだろう。右翼は、現代では一般的に、保守派、体制派、国粋主義者、民族主義者、資本主義者などを意味する。それに対して左翼は、革新派、急進派、反体制派、共産主義、社会主義といった意味になる。これらの中で、「右 = 体制」「左 = 反体制」という関係があることから、右の方がなんとなく主体であるような響きがある。

ただし、右翼が「右」であるのは、別に「右」という言葉がもともと「プライマリー」なニュアンスを持っていたからではなさそうだ。右翼という言葉はフランス革命の頃に作られたものだという。国民議会において、保守派の議員が議長席から見て右側の席を占めたことに由来するらしい。(「翼」という語は、議事堂の議場が半円形をしており、上から見ると翼の形に見えたから)。

ではなぜ、保守派の議員たちは議長席から見て右側の席を占めていたのだろうか。少し調べたがわからなかった。議長席から見て右側ということは、議場の入り口から見るとおそらく左側にあたるだろう。行動学的に、人は部屋の左右どちらに向かうのか。その行動特性はその人の認知特性とどう関係しているのだろうか。もし、前帯状皮質や扁桃体の先天的な特徴と、左右方向に対する空間認知の特性に、何らかの相関があるのなら、「社会システムに関する指向性」すなわちモードレスデザインとモーダルデザインの関係をもっと生物学的観点や社会学的観点から整理できるに違いない。

<追記>

浅野さんより参考情報をお知らせいただいたので、右と左の語感や、非対称性について、一般的に言われていることを挙げてみる。

まず、「右の方がプライマリーである」という認識については、多くの文化圏で共通しているということ。例えばこのページ “Connection between right (opposite of left) and right (legal term)?” を読むと、次のような指摘がある。

  • 英語の “right” には、「右」「権利」「正しい」といった意味があるが、他の言語でもこれらが同じ単語で表されることがある。
  • 宗教観として、左を意味する語が「悪」「不浄」「不幸」「暗」といったニュアンスと結びつけられていることが多い。同時に、右は「善」「権力」「幸」「明」のニュアンスと結びつく。
  • このような考え方の源になっているのは、我々の身体において一般に右手の方が強いこと、それから、日の出の方角を向いた時に太陽が右(南)に向かって昇ることなどが考えられる(古代ヘブライ語では「右」と「南」は同じ語)。

確かに、この最後の「太陽が進む方向」というのはその発見自体が「方角」の概念の発生と同期しているかもしれないし、「より強い方の手」というのも、左右という概念の発生と同期していそうだ。そうすると、右も左もどちらも右であるという感覚は、あながちナンセンスとは言えない。自分をとりまく空間における意識のフォーカスの向き、方向という概念そのものが、「太陽が昇っていく側」や「箸を持つ手の側」によって立ち上がるなら、「右」という言葉が First Responder を意味することの説明がつく。ただし順序が実は逆だ。「右」が方向の概念をリプリゼントするのではなく、方向の概念が、そもそも今我々が右と呼んでいるところから生まれたのだ。

身体の非対称性や、天文の非対称性が元になっているなら、この感覚は言語や文化に依存しないだろう(南半球では逆かもしれないが…)。

例えば日本でも、右側を「上手」と呼び、偉い人が置かれる方向とされてきた。「右にならえ」「右に出るものはいない」という言い方もある。

また、パーソナルスペースの話題として、「男性は女性の右側に立ちたがる」と言われており、これは、利き手である右手をフリーにすることで「守りたい心理欲求」を満たしているのだという。似た話に、「オートバイに乗っている時、左折よりも右折の方が怖い」という説がある。右利きであることが前提かもしれないが、向かって左側よりも右側の方が心理的なシールドが薄く、危険を感じる度合いが強いようだ。(このあたり、多くの研究がありそうだが、すぐには調べられなかった)

右利きであれば右側の方がシールドが厚そうだが、実際には、右からの攻撃には弱く、左側からの危険に対して右手で対処するという動作の方が自然に行えるということだろうと思う。

このような身体的非対称性からくる認知上の傾向は、利き手に依存している。利き手の存在は、いろいろな動物の中でも特に人の特徴と言えるらしい。また、90%の人は右利きだというが、このように完全に傾向がはっきりしているのも人の特徴だという。臓器の非対称性、特に脳構造の左右非対称性が利き手に関係しているようだが、人においてのみ「右利き」の傾向がはっきりしているのはなぜか。その理由は次のようなものらしい。

  • 右半身は左脳に、左半身は右脳につながっている
  • 人の脳は特に左右非対称性が強い
  • 人は文字を書くが、その言語処理は主に左脳の役割
  • 右手を多く使うので、右利きになる

http://www.health.ne.jp/library/5000/w5000321.html
http://logmi.jp/106810

一方、右脳と左脳の役割は、実はそれほどはっきり分かれているわけではないというのもよく聞く。だからここに書いたような話にどれぐらいの妥当性や普遍性があるのかはわからない。ただ、空間や表情などの並列処理を担うのは主に右脳、言語や論理などの逐次処理は主に左脳、といったことを聞くと、それらはそのまま、前者はモードレスデザインのオブジェクト指向性、後者はモーダルデザインのタスク指向性と対応するので、モードレスとモーダルのテーマを掘り下げるには、脳の研究に進まなければならないことがわかる。

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