デザインには常に目的があります。というか、あるモノやコトの目的を外在化するための、外界とのインターフェースとなるのがデザインです。機能のデザインはもとより、装飾のデザインにも目的があり、そのモノの性格やメッセージを表現しています。だからデザインの作品というものは無くて、人は作品をデザインするのです。
目的を持ったモノやコトは、それに対峙する何かとの直接的あるいは間接的なインタラクトを期待されているはずです。その意味で、意図的に作られたモノやコトはすべてある種の道具であると言えるでしょう。それに対峙するのが人間である場合、その人はユーザーと呼ばれます。
道具というのは基本的にテクノロジーの産物であって、たとえ耳かきのような単純なものであっても、その形状や材質には何らかの工夫があり、その存在価値である利便性を創出しています。だからテクノロジーが優れているほど、高い利便性を提供できます。利便性を高めることができるテクノロジーほど優れているとも言えます。
道具に高度なテクノロジーが要求されると、それを作るのは専門家の仕事となります。職人とかデザイナーとかエンジニアと呼ばれる人がそれです。彼等は専門的なテクニックを用いて道具を作ることを生業とします。この段階で、道具を使う人と作る人が分離するわけです。
作る人は、その道具の利用価値を高めるために、使う人のニーズをさぐります。使う人の用途や好みにぴったりのものができれば、自分の仕事が高く評価されるからです。
19世紀初頭に家具職人であったミヒャエルトーネットは、画期的な曲木技術を発明し、また効率的な製造方法を確立したことで、その後発売した No.14(214)という椅子を大ヒットさせました。これがマスプロダクションの始まりと言われています。それまで家具というのは高度な工法を要する量産困難なもので、基本的に手作りの受注生産でした。それが、産業革命による工業化と独自の加工技術によって大量生産できるようになり、高品質の製品を安価に提供できるようになったというわけです。
それ以前にもちょっとした小物であればそれなりの量産ができたのでしょうが、家具のような複雑な道具についてまで大量生産されるようになったことで、道具のデザインは、個別のクライアントのニーズに対してではなく、不特定多数の「ユーザー層」のニーズに対して最適化される必要がでてきました。
ユーザーが限られていれば、道具の合目的性を高めるのは比較的簡単です。しかしユーザーが多くなれば難しくなっていきます。オーダーメイドであれば発注者の希望を細かく反映することができますが、不特定多数がターゲットである場合、人によって利用のコンテクストが異なるため、仕様について割り切らなければならない度合いが増します。つまり言ってみれば、デザインというのは、合目的性と汎用性のバランスのことなのです。どちらに寄せていくかは、製品の性質によって自然に決まります。
もし合目的性のみを最大化するなら、ユーザーを限定して、徹底的に要求を分析し、いつ何をどのようにしたいのかということを厳密に定義すればよいのです。そうすると、例えばあるひとつの業務を完全に定義し、それに特化した画面を作ったら、そこには、ボタンがひとつだけ見えているということになるでしょう。「業務実行」というボタンです。要求事項が完全に特定されているならすべての処理を自動化して内部に隠匿できるからです。ユーザーの操作はそのボタンを押すだけです。いや、それすら必要ないかもしれません。ジェフラスキンは、「ある状況でユーザーに許された操作がひとつだけであれば、その操作は省略できる。」と言っていますから、ボタンがひとつだけしかないのなら、それは無くすことができます。つまり、そのユーザーがシステムにログインした瞬間に処理が実行されればよいのです。もっと言えば、朝出社してタイムカードを押した瞬間でよいのです。というか、そうなったらもうその業務は存在しないのと一緒ですね。
このような極端なことに普通ならないのは、要件定義の段階において、ユーザーのコンテクストというものを完全には定義できないからです。人の活動には必ず恣意的な側面があり、あるいは、仕様化できない創造性が期待されているのです。コンテクストというのは、個々の要求事項から帰納的に構造化できるものではないのです。コンテクストの全体像を特定できないとすれば、要求分析の限界点を事前に予測することもできないということです。
要求の特定が必ずしもユーザビリティの向上に直結しないというのは、次のように考えると分かります。
あるシステムに対して1000通りの要求があったとします。それらひとつひとつを厳密に定義できたなら、それぞれの要求に対応した1000個のボタンを画面に並べればよいということになります。そうすればユーザーは何をするにもボタンを一回押せば済むので、合目的性と操作効率は最大になります。しかし実際には、そんなシステムは誰も使えないのです。それはデザインとは言えません。
1000通りの要求というのを、もっと汎化できるのではないかと思うかもしれません。しかしコンテクストは無際限に細分化できるので、どこまで分析しても最小粒度に行き着かないのです。最小粒度が曖昧であれば、構造化は不可能です。1000通りの要求を特定できたと思っても、その粒がユーザーの目的に照らして十分に細かいのかということを、短時間で評価する方法はないのです。なぜならユーザー自身ですら、自分のコンテクストの変化を正確には予測できないからです。
このように、ユーザーのコンテクストを分解することでシステムの要件を定義しようとする試みは、簡単に壁に突き当たってしまうのです。
そうですよね。採集して、まとめて、抽象して、構造化してそこから要件を割り出すためにコンテクストを使うわけじゃないんですよね。でも、コンテクストに近づくと、つい、そうしてしまいたくなる誘惑に駆られます。
それに、いろんなところで見かけるペルソナ/シナリオ法なんかも、ペルソナづくり=コンテクスト探りの目的を間違えちゃっているような気がします。なんかマーケティングみたいな話になってたり。だからぼくは最初、「ペルソナなんて作ってどうするの?」と思ってました。
でも、「ペルソナ作って、それからどうするの」とか、クーパーの本を読むとやっぱり、ちょっとニュアンスが違うんですよね。
量産によってターゲットが不特定多数になった場合の、合目的性と汎用性のバランスをどうとるかという課題に対して、クーパーが提案しているのは、いわば一点突破的なやり口なんだと思います。
不特定多数を平均したようなユーザー像をマーケティング的に割り出して、その像におもねるようにデザインするのではなく、誰か一人のためのオーダーメイドとして作ったほうが、案外、みんなが使える代物になる確率が高まるんじゃない?なんかそんな気がするよ、経験的に。といった。
で、本当のオーダーメイドのデザインの過程でクライアント(オンサイトのユーザー)にあれこれ聞く代わりに、”仮想の誰か一人”のコンテクストにデザイン中のプロダクトをちょくちょく当てはめてみては、そのコンテクストに不調和をもたらすことがないかどうかチェックするという。
コンテクストには、そんなふうに近づくべきなんじゃないでしょうか。
少なくともクーパーのやつは、そういう、じつに現実主義的な次善の策、ってかんじがします。
そうですね。そのとおりだと思います。
ただ経験上、「仮想した誰か一人」が妥当であるかどうかという議論に必ずなってしまい、その妥当性を証明する術がないんですよね。
コンサルタントとしてはロジックの積み上げを説明できないと話にならないので、かなり非現実的な方法になってしまいます。
合意形成するには客観的なデータが必要で、そのためには統計をもとにした「平均のユーザー像」にせざるを得なくて、結局クーパー的なペルソナにはならないという。
平均のユーザー像になってしまうのだったら、変に人格化しなくても、普通の「ターゲット属性」でいいじゃないかと。
なるほど。たしかにその妥当性ってやつはあらかじめ証明しようがないですもんね。
本質的にはギャンブルですからね。クーパーはギャンブルをやろうといって、その後で、ギャンブルの勝率の上げ方を指南しているようなもの。
だから、未来を約束する立場ではなく、未来のリスクをとる立場、ってことはつまりプロジェクトリーダーなりオーナーなりが、それでやろう、と言い出ださない限りはありえない話なんですね。