自動車式システムの操作性は実験的です。ひとつひとつの操作に対するフィードバックを手がかりに次の操作を決めながら、作業対象の状態をいい感じに持っていくことが求められます。作業の手順は無限にあるので、自分なりの工夫でより良い結果を導く努力をしなければいけません。
一方、電車式システムの操作性は理論的で、作業の初期段階ですでに結果が分かっています。というか結果の種類を選択することが操作の中心です。作業手順は限定的で、タスクを決めたら後は流れに身を任せるだけです。
どこか目的地に行く時に、自動車を運転していくのか電車に乗って行くのか、どちらを好むかは人によって違うでしょう。仮にどちらも同程度の時間とコストと労力で行けるとして、自分が運転免許と車を持っているならば、車で行くことを選ぶ人が多いのではないでしょうか。分かりませんが。
ここで問題になるのは、「運転免許」の存在です。つまり運転する技能です。目的地まで自動車で行くためには、ややこしい運転技能を体得していなければならないのです。電車で行くのにそんな特殊な技能は必要ありません。道を間違えずにちゃんと行けるかという心配も不要です。
自動車式のシステムを使いこなすには、ある種の技能が必要なのです。
この技能というのは、知識とは少し違います。知識も必要ではありますが、操作の各段階で状況を適切に把握し、次の妥当な一手を見極める判断力が問われるのです。これが実験的という意味です。作業の対象物が望むものと違う感じになってきてしまったら、途中で方針を変えたりして試行錯誤し、自らのアイデアで状況を好転させる才能が必要なのです。
GUI はコマンドラインに比べて初心者にも分かりやすいとか直感的に操作できるとか言われますが、上記の理由から、それを使いこなせるかどうかはユーザーの資質によって決まると思います。センスと言ってもいいかもしれません。
同時に、ユーザーインターフェースがユーザーの技能体得をうまく助けるようなデザインになっているかどうかも重要です。デザインが良ければ、ユーザーは短時間で技能を高め、思い通りに使えるようなります。ただしこの場合の良いデザインというのは、インタラクションにおける記号的表現の論理性や妥当性によって生まれるもので、そういう非自然言語的な表現を解釈することが苦手だったり、面白味を感じない人にとっては、苦痛でしかないのです。逆にそういうのが好きな人にとっては、ワクワクするような世界になります。
1987年版の「Human Interface Guidelines – The Apple Desktop Interface」には、一般的なユーザー像の定義として次のようなことが書かれています。
- 人は生まれながらにして好奇心に富む。学習効果は、自分のおかれた環境を自ら探求する時に最も高まる。
- 人は環境をコントロールしたがる。対するものを制御しているという感覚を持つことと、自分自身の行動の結果を理解することを好む。
- 人は記号や抽象表現に慣れ親しんでいる。そのため、言葉、視覚言語、身体言語によるコミュニケーションを好む。
- 人はよい環境が与えられると想像力豊かで芸術的になる。人が最も生産的になるのは、仕事や遊びの環境が楽しくやりがいがある時である。
僕はこのくだりがとても好きなのですが、どうも一般論としては理想的すぎるように思われるのです。これを前提にシステムを設計すると、要は Mac とか Newton とか iPod とか iPhone みたくなるわけですが、これらのユーザーインタフェースに接してもピンとこない人は結構いるでしょう。悪いとまでは思わなくても、Windows と Mac の違いはメニューバーの位置とフォントぐらいだと感じている人はかなりいそうです。
話を戻すと、自動車式のシステムである GUI を使いこなすには、グラフィックや「目的語 → 動詞」のシンタックスで構成された記号論を解釈しなければいけません。そのためには、記号自体がきちんと論理的に設計されていることと、それを無理なく理解できるユーザーのセンスが必要です。はじめて目にする記号であっても、その意味や振る舞いを推測する手がかりがあれば、ユーザーの理解は進みます。逆に既知の記号とコンフリクトするようなものはユーザーを混乱させます。
記号を読み解く難度を下げる第一の方法は、誤解の余地が無いほど記号を単純にすることですが、提供する機能が多くなればユーザーインターフェースに求められる表現力も高くなり、記号も増えて複雑化します。そこで必要になる第二の方法が、すでにある程度の有効性が確認されている既存の記号の再利用、つまりデザインパターンの活用なのです。