Manifesto of the Modelessist Party

スティーブジョブスはかつてこんなことを言っています。

僕は「サイエンティフィック・アメリカン」だったと思いますが、人を含めた地上のさまざまな動物の種の、運動の効率に関する研究を読みました。その研究はA地点からB地点へ最小限のエネルギーを用いて移動する時に、どの種が一番効率が良いか、結論を出したのです。結果はコンドルが最高でした。人は下から数えて3分の1のところでした。

しかし、人が自転車を利用した場合を、ある人が考察しました。その結果、人はコンドルの倍の効率を見せたのです。つまり、自転車を発明した時、人は本来持っている歩くという身体的な機能を拡大する道具を作り出したといえるのです。

それゆえに、僕はパーソナルコンピュータと自転車とを比較したいのです。なぜなら、それは、人が生れながら持つ精神的なもの、つまり知性の一部を拡大する道具だからです。個人のレベルでの生産性を高めるための特別な関係が、人とコンピュータの関わりの中で生まれるのです。

aki’s STOCKTAKING より

これは、パーソナルコンピュータという、当時普及しつつあった新しい道具の意義を比喩的に語ったもので、Mac 登場直前の話です。彼が「生産性を高めるための特別な関係」と言う時、どの程度 GUI の思想的インパクトを意識していたか分かりませんが、Alto や Mac が示したモードレスな世界観は、オートメーションを崇める管理主義に対して投げかけられた強力な反旗となったことは間違いないでしょう。

ここまで考察してきたように、モードレスとモーダルの対立構造は、人の生まれつきの認知特性から、社会システムに対するイデオロギーまで、非常に多方面に波及しています。世界の近代史を見れば、社会の発展には恐らく両方が必要で、両者が互いの欠点を補うことが、致命的なリスクを回避する自浄作用になるのでしょう。

しかし、ことコンピュータシステムの分野においては、モーダル党が圧倒的に優位を誇っています。これは、多くの場合、システムのオーナーとユーザーが「管理する者」と「管理される者」の関係にあるからで、「管理する者」は、「管理される者」の仕事や生活を特定のタスクによって統制するために、コンピューティングパワーを大規模に導入してきたからです。

例えば業務アプリケーションを企画する人々は大抵、UIをタスク依存に定義しようとし、そのことに何の疑問も罪悪感も持ちません。コンピュータシステムとはそういうものであると信じこんでしまっているのです。コンピューティングパワーによって仕事をもっと楽しくしようなどとは考えないのです。彼等は無自覚の管理主義者であり、無意識にユーザーから創造性を奪っています。その結果として、道端のコーラの自動販売機にまでモーダルなデザインがはびこっているのです。

フォームのサブミット時に確認画面が必要だと主張する人々は、データの不正合をユーザーのせいにして、ユーザーが気にしなければならない画面が二倍に増えていることを何とも思わないのです。メールアドレスの入力を繰り返させて、しかもわざわざコピー&ペーストできないような細工をする人々は、人間の仕事とコンピュータの仕事が逆転してしまっていることに気づかないのです。彼等は、ユーザーに厳密な操作を強要しているうちはまだ業務に自動化できる余地があるということを理解できないのです。

別の言い方をすれば、システムをタスクファーストにするのは、オブジェクトが自明で選択の必要がない場合か、あるいはユーザーの創造性を排除したい場合なのです。少しでもユーザーに人間らしい仕事を期待するなら、ユーザーインターフェースはオブジェクトファーストにするべきです。

このような価値観は、しかし、システムのオーナー層、つまり請負型案件の発注者層にはなかなか通じません。彼等は組織や業務というシステムを管理する立場にあるモーダル党員だからです。僕は提案したデザインに思想的な同意を得ようとして何度も挫折しました。あるいは現行システム/業務が手の付けられないほどモーダルで、はじめから OOUI の提案は諦めて、モーダル党員を装って無難なタスク指向のデザイン案を作るという屈辱を何度も味わいました。繰り返されるストレスの中で、僕は、「これは闘争だ」と感じるようになりました。

コンピュータシステムがもっとモードレスになれば、我々は我々自身の創造性によって、仕事を有意義で楽しいものにできるはずです。一部のクリティカルな手続型業務を除いて、ほとんどのコンピュータシステムは、コンテクストをユーザーに解放し、ユーザーをモードから解放できるはずです。そのためには、モードレスデザインの思想と方法論を理解して実践するデザイナーがもっと必要です。人と道具が互いに影響し合い、相乗的にクリエイティビティを高められるようなデザインがもっと必要なのです。受発注関係の構図がその活動の障害になるなら、モードレスデザイナーは自発的な取り組みの中でアーキタイプを生み出し、共有し、耐久戦に向けて決起していかなければならないのです。

機は熟していると思います。我らが歩武の先頭には、すでに先人の掲げた反旗が翻っているのです。

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2 Responses to Manifesto of the Modelessist Party

  1. noriyo says:

    デザインにも、アウフヘーベンを。
    そう願います 😉

  2. ueno says:

    なるほど、そうですよね。

    直情的な唯物史観批判を避けるためにも、議論を対立構造から次のレベルに引き上げる新たなモデルが必要なのだと思います。

    そのモデルというのは、ビジネスモデルでも技術モデルでもなく、イリュージョンモデルとでも言うべき高次のデザインメソッドであり、あらゆる人工物に込められるクリエイティブマインドになるのでしょう。

    … って、我々はいったい何の話をしてるのでしょうか。