モードレスネスの説明としては、こんなことが書いてありました。アプリケーションはできるだけモードが無い方が良い。モードが無いということは、ユーザーが好きな時に好きなことができるということ。モードはユーザーの行動を制限してしまい、ひとつの作業を終えるまで次の作業に移ることができない。モードが無ければ、ユーザーはもっとコンピュータをコントロールできる。
僕はユーザーインターフェースにおけるモードというものをそれまであまり意識したことがありませんでしたが、これを読んで思い浮かべたのは、Windows におけるウィザードでした。
はじめて Windows を触った時、◯◯セットアップウィザードというのがやたらと多いのに気付きました。それらはどうやら初心者向けに用意されたプログラムのようでしたが、僕にとっては、留守中に母親が勝手に机の上を片付けてしまったような気持ち悪さがありました。
Windows においてこの気持ち悪さを増長させていたのが、そのデスクトップの実装コンセプトでした。何かのアプリケーションをウィザードでインストールした後、そのアプリケーションの起動方法が分からずに人に聞くと、スタートメニューにアイコンが追加されているはずだというのです。確かにそこにはアプリケーションのショートカットが登録されていましたが、アプリケーションの本体がどこにあるのか全くイメージできませんでした。ディレクトリの中を探し回って、やっとそれらしきアイコンを見つけたので、自分で用意したフォルダにそれを移動しようとすると、移動できませんといったアラートが表示されました。移動できるアイコンと移動できないアイコンは、見た目からは全く区別できません。やってみるまで分からないのです。自分の意思ではなく、誰かの意思で勝手に自分のコンピュータが変更され、しかもその状態を変更することができないのです。そういうのがいちいち煩わしくて、頭にきました。
そういったことから、モードというのは、単にウィザードのことだと捉えていてはダメで、もっと広く「コントロールの不自由さ」のこととして考えなければならないと思い当たったのでした。