『モードレスデザイン』- 3 適合の形 – 矢を射ってから的を描く より
我々の生活や社会では、多くの人や物が変化し続け、複数の活動がつねに同時進行している。そうした状況の中にあるデザインのプロセスは、線形的なものでも条件分岐的なツリー型でもなく、ネットワーク型になると久保田は言う。
デザインにおける時間は過去から未来へと一方向に進んでいくわけではない。しかも時間軸は感覚的には決して直線ではなく、カーブしたり折れ曲がったりしている(★14)。
デザイナーは、要求の特定とそこからの形の導出はロジカルな推論によって可能であるという前提を捨てる必要がある。デザインのプロセスは線形に記述できないし、カップリングは事前に計画できない。物の存在はいつも互いを変化させ続けている。固定された文脈の中で恣意的かつ一方的に想定された「物の意味」や「道具の使い方」は、決定的な記号接地問題を引き起こす。実際のデザインは、ただ計画に従って作ることでも、ただ闇雲に作ることでもない。その間にある何かである。ひとつひとつの手が次の一手を導く。物の生に随伴されるその感覚を手がかりにして、前進するしかないのである。
デザインのプロセスは、アナリシス(発散/分析)とシンセシス(収束/統合)の二段階として説明されることが多い。まず状況がアナライズされ、それらが何らかの考え方に従ってシンセサイズされる。その結果、妥当な形が出来上がると考えられている。しかしデザインの過程でアナリシスとシンセシスが順番に起こるという前提は多分に近代主義的である。段階性は因果律に絡め取られている。手続的な作業からは手続的な物しか生まれない。創造的な物を作るには、須永の言う「生きたデザイニング」を実践しなければならない。連想の網を手繰り寄せながら先入観を裏返していくような思考において、アナリシスとシンセシスは同時に起こる。規定するものとされるものが攪拌されるその感覚をデザイナーは知っているはずだ。創造する精神に、論理的な段階は必ずしも期待できない。
デザインの計画を綿密に立て過ぎれば、ひとつ予定が狂っただけで道を見失ってしまう。そうではなく、意思の形としてのイメージだけを持って、日々の交差点で少しでもそれに近づく方へと舵を切る。そうすればいつかそこへ辿り着くという確信によって、手を動かす。プロセスがデザインを作るわけではない。白紙のカンバスに絵を描くところを内省してみる。そこでは、計画の中に行為があるというより、行為の中に計画があると感じるだろう。そして出来上がったものが何であるかは、実際のところ、出来上がったものによってしか判断できない。形に込められた行為の可能性は、デザインという箱の中にある量子的な状態の重ね合わせである。事前の意図と箱の中の状態に直接的な関係はない。制作者や使用者がどのような期待を持つにしろ、そのデザインの意味は、それが使われる時になってはじめて、つまり後から発見されるのである。
使用者の要求は個別的な文脈の中に埋め込まれているので、ホリスティックなデザインの要件にはならない。ひとつの道具を個々の要求すべてに合わせてデザインすることはできないし、できたとしてもそれは全体性を失っているので学習不能な代物になるだろう。だから、うまく使われない道具というのは、使用者に合っていないことが原因なのではなく、使用者が自身を道具に合わせることができないようなデザインだったことが原因なのだ。道具は、使用者が自分の行動をそれに合わせて変化させることができるような明快な原理で作動し、そして使用者が自身の力を使って行動を変えるに値する効果をもたらす必要がある。さまざまな事前調査によって使用者の行動をクラスタリングしようとするのは意味のある努力かもしれないが、仮にある要求と完全に対応する道具ができたとしても、その道具の使用によって使用者自身の視点や行動が変化するということを考えれば、デザインはまだ折り返し地点なのである。
- ★14 久保田晃弘「予言とアーカイヴ」(https://ekrits.jp/2024/06/8229)