Modeless Design Advent Calendar 2025

先入観のブレークダウン

December 8, 2025

『モードレスデザイン』- 2 使用すること – 手許性 より

道具的な存在者たちは互いに連関している。そして我々がそれを実践的に使用している時、物は手許性(Zuhandenheit)という在り方で現れてくるとハイデガーは言う。

道具がその存在においてありのままに現われてくるのは、たとえば槌を揮って槌打つように、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉においてのみであるが、そのような交渉は、その存在者を出現する事物として主題的に把握するのではなく、ましてそのような使用が、道具そのものの構造をそれとして知っているわけではない。…(中略)… 槌がたんなる事物として眺められるのではなく、それが手っ取りばやく使用されればされるほど、槌に対する関わり合いはそれだけ根源的になり、はそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。槌を揮うことが、みずから槌に特有の手ごろさを発見するのである。道具がこのようにそれ自身の側から現われてくるような道具の存在様相を、われわれは手許性(Zuhandenheit)となづける。道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない(★1)。[本文に合わせて一部訳語を変更]

慣れ親しみながら諸物と交渉すること。その物が純然とした仕方で手許にあること。そのような世界への根源的な関係の内に、我々の存在構造は成立している。我々の自己は、我々と世界の間の「使用する」ことの配慮的な場に生じるものであり、それ以外のどこかに単独で存在するわけではない。

ウィノグラードとフローレスは、「実践的理解は、切離され、孤立した理論的理解よりも根源的である」と言っている(★17)。西洋の伝統では、理論的観点は現実に埋没した実践的理解より優越しているとされてきた。しかし、ふだん意識されないが、我々は何よりもまず手許に在る道具的なものとの経験的な関わりを通じて世界と繋がっている。我々の常識では、事物を知覚しそれらを扱うためには、頭の中にその事物についての表象を持たなければならない。しかし理論的な理解ではなく配慮的な交渉に目を向ければ、この表象という考え方には疑問が生じるとウィノグラードらは言う。ハンマーで釘を打つ時、ハンマーをわざわざ表象化して理論的に考える必要はない。釘を打つことができるのは、釘を打つという行為に自分が親しんでいるからであり、ハンマーそのものについての知識があるからではない。釘を打つという行為の中に被投された状態において、ハンマーはハンマーとして理論的に存在しているのではなく、状況に溶け込んで我々の一部となっている。歩くときに足の筋肉について意識しないのと同じだ。

事物の形相をどれほど凝視しても、手許存在としての姿を発見することはできない。事物を理論的な存在として眺めるだけでは、その物の「そのもの性」を知ることはできない。そのもの性(それが何であるか)は、我々がそれを使用することの中で捉えられる。そのような実践的な理解の仕方、つまり我々が我々の配慮的な交渉を通じて物に関わり合うことで感得されてくる世界の在り方は、ケイが「Doing with Images Makes Symbols」という標語で表した、我々自身がミディアムとなって世界と繋がる姿に重なる。我々の世界は、我々が諸物と関わり合う中で、我々自身を含んだかたちで、現れる。

手許にある慣れ親しんだ道具との交渉を通じて、我々と世界の直接的な関係の場が定義される。我々がそのように世界と関わる時、道具はその手許性を露わにする。そしてその表象は我々の意識から退隠する。その時我々は、これ以上ないというほどに道具を自分のものにしてしまっているということである。しかしハイデガーによれば、ひとたびその道具が破損して使えなくなったり、あるいは必要な時にその道具が見当たらないといったことが起こると、道具の手許性は失われ、ただ目の前に認識されるだけの在り方である手前性(Vorhandenheit)に場を譲ることになるのだという。手許にあるものとして物がそれ自体になっているという在り方が破壊され、慣れ親しんだ交渉の世界との関係に亀裂が入る。たとえば割り箸がうまく割れなかった時、我々は非常に危うい場所に降り立つ。そこは道具的な世界と事物的な世界の狭間である。手許には無が生じ、その不安が我々の居心地を悪くするのである。

ただしこの居心地の悪さはむしろ、存在論的にはより根源的な現象として把握されなければならないのだとハイデガーは言う。慣れ親しんだ交渉の優位性が不安によって一掃されてしまった後でのみ、人間の根源的な構造としての配慮的なものが確認できる。アガンベンは、「配慮の優位は慣れ親しんだ交渉の無化と中性化の操作をつうじてのみ可能とされる」と言っている(★2)。配慮的な交渉の本質は、手許存在が「表象されないこと」の内に在るのであり、その優位性は手許性が失われることによって明らかになるのだという。

ハンマーがハンマーとして現れてくるのは、つまり手許存在としての道具から手前存在としての単なる物が表象されてくるのは、それが手から滑って木を傷つけたり、あるいは釘の太さに対してハンマーのサイズが小さすぎるといった、「慣れ親しんだ交渉の無化と中性化」が起きた時である。そのような状況をウィノグラードらは「ブレークダウン」と呼ぶ(★17)。対象化された物としての道具は、作ることの場に被投されている間は意識されない。ブレークダウンによってはじめて対峙的に姿を現す。ということは、道具というものは、手許性が発揮されている状態から何かのきっかけでブレークダウンが起きるその狭間でデザインされなければいけないということだ。ウィノグラードらは、「新しいデザインが生まれ、実現される場は、ブレークダウンの再現的構造から派生してくる空間である」と言う。そしてデザインには、ブレークダウンの解釈と、新しい交渉への予期が内包されることになる。

道具(となり得るような物)のデザインにおいては、それが行為全体と同調し、使用者の被投された世界とうまく連関しながら、手許存在となることが目標になる。そのために必要なのは、それが使用者の先入観にブレークダウンを起こし、そこから新たな世界を構築できるような交渉可能性を拓いておくことだ。ワードプロセッサーでは、文章を比較したり、長文を流し読みしたり、文章の断片をコピーしたりするのに、ウインドウの移動やスクロールといったメカニズムを利用する。しかしそれらは使用者の文脈的な目標に従って実装されているわけではない。実際に操作の選択を行うのは使用者であり、その際にメカニズム全体の中から望む仕事をしてくれるものを自然に選び出せるようになっていることが重要なのである。それぞれのメカニズムが機能するためには、それらが何であるかを、それらを使う行為によって創造的に解釈できるようになっていなければならない。もしそれがうまくいった場合、実装されたさまざまなメカニズムは、むしろデザイン段階で想定していなかった使われ方をすることになる。

ウィノグラードらは、複数のシステムがそれぞれの自律性を確保したまま何らかの構造的変化によって結合し新たなシステムを形成する、「構造的カップリング」という概念を用いて、人と道具の間に創造的な行為が形成される様子を次のように書いている。

成功したデザインを調べてみると、動作領域の完全なモデル化を行おうとはせず、領域の根底構造と「同調」して、新しい構造的カップリングを生み出すための修正や進化を許容していることがわかる。我々は観察者(そしてプログラマ)として、可能な限り、適切な行動の領域は何かを理解したい。この理解が構造変化のデザインや選択を導いてくれるものではあるが、それ自身、メカニズムとして具体化される必要はない(し、することはできない(★17)。


  • ★1 マルティン・ハイデッガー『存在と時間』(上)1994,筑摩書房
  • ★2 ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』2016,みすず書房
  • ★17 テリー・ウィノグラード、フェルナンド・フローレス『コンピュータと認知を理解する』1989,産業図書