『モードレスデザイン』- 2 使用すること – 中動態 より
先にも書いたとおり、ギリシア語の「クレスタイ(使用する)」はそうした中動的な使われ方をする言葉であり、主体がその動きの場所となっている様子を表す。そこには我々が物を使用する時の非能動的な状況が含意されている。アガンベンによれば、あらゆる使用は、何よりもまず、自らを使用することなのだという。何かとの使用関係に入るためには、私はそれ(使用するという動作)の影響を受けなければならず、私自身を使用する者として構成しなければならない。
人間と世界とは、使用においては、絶対的かつ相互的な内在の関係にある。なにものかを使用するさいには、使用する者自身の存在がまずもっては使用されなければならないのである(★2)。
何かを使用するということは、主体自らが使用される者として客体化されるのであり、受動的であることにおいて能動的なのである。こうして主体と客体は渾然一体となる。そしてその行為は人間的実践の新しい像として立ち現われることになる、とアガンベンは言う。たとえば我々は子供の頃に箸を使う練習をする。箸を使うための手指の使い方を練習するのである。練習の結果、我々の手指は新しい感覚と動きを得る。そして日々繰り返し箸を使っているうちに、箸で食事をすることの像が立ち上がってくる。
アガンベンは、使用するということの本質は習慣的な次元にあると言う。たとえばグレン・グールドは習慣的にピアノを演奏しているだろうが、彼は実際のところ自分を使用することしかしていない。彼は自分の意志で作動させたりさせないでおく演奏能力の主人なのではなく、ピアノを演奏しているかいないかにかかわらず、「ピアノの使用」の所有者として自己を構成している。使用は、習慣と同じく「生の形式」なのであって、ある主体の知識や能力ではない。このような捉え方をすることは、近代が主体とその能力の関係を位置づけてきた地図を描き直すことを意味するのだとアガンベンは言う。
詩人とは、詩作の能力を所有していて、それをいつの日か、意志の行為をつうじて(意志は、西洋文化においては、もろもろの行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置である)、神学者たちの神のように、どのようにしてか、またなぜかはわからないが、作動させる決心をする者のことではない。また、詩人と同様、大工や靴職人やフルート奏者やわたしたちが神学的起源の言葉を用いてプロフェッショニスタと呼んでいる者たち、そして最後にはあらゆる人間も、なにかをおこなったり作ったりする能力の超越的な有資格者なのではない。彼らはむしろ、自分たちの四肢と自分たちを取り巻く世界を使用するなかで、そして使用するなかでのみ、自己を経験し、自己を(自己と世界の)使用者として構成する生きものなのだ(★2)。
物を使うという行為は、自分の意志によるものではない。自分が何かを使う能力を持っていてそれを自由意志によって行使しているのではない。むしろ、そうしたことを可能にする身体を使用する中で、自分というものが構成されてくるのである。
- ★2 ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』2016,みすず書房