『モードレスデザイン』- 7 モダリティー – 環世界とアフォーダンス より
ギブソンによれば、道具は、それを使用している時には身体の延長であり、使用者自身の一部となっていて、もはや環境の一部ではなくなるのだという。しかし、使用していない時には、それは単に環境の中の対象に過ぎない。たとえば衣服は、それを着ている時は着ている人の身体の一部である。熱損失を調節するといった効用だけでなく、衣服は着ている人の身体の表面の肌理や色を変えてしまう、いわば第二の皮膚である。一方、着ていない時には、衣服は織物や動物の皮といった環境の中の対象に過ぎない。衣服は我々に着ることをアフォードする。そしてそれを着ると、身体に付属するものとなり、もはや環境の一部ではなくなる。そのような、身体に何かを付属させる可能性が示唆するのは、動物と環境との境界は皮膚の表面に固定したものではなく、位置を変え得るものだということである。
では、我々が知覚している環境である「面」から、どうやってアフォーダンスが生じるのだろうか。おそらく面の構造や配置は、それらの面がアフォードするものを構成しているのだとギブソンは言う。
もしそうならば、それら面を知覚することが、面がアフォードするものを知覚することである。これは大変大胆な仮説である。なぜならば、環境に存在する事物の「価値」や「意味」が直接的に知覚されることを示しているからである。さらにこの仮説は、価値や意味が知覚者の外側に存在するということがどのような意味をもっているのかを説明することになろう(★28)。
アフォーダンスを知覚することは、価値や意味に満ちている生態学的対象を知覚する過程である。生態学的な観点における対象は、物理学的もしくは心理学的な観点における対象と違って、その物(環境)自体に観察者にとっての意味が含まれている。我々はそれを「直接」知覚する。感覚刺激として受け取ったものを間接的に理解するのではないのだ。
すでにゲシュタルト心理学では、我々が対象の意味を直接的に理解することを発見していた。しかしなぜそのようなことができるのかは説明されていなかった。アフォーダンス理論はそれを説明する。我々が対象の意味を直接的に理解できるのは、そこに直接意味があるからなのだ。
環境のアフォーダンスをめぐる重要な事実は、価値や意味がしばしば主観的で、現象的、精神的であると考えられているのとは異なり、アフォーダンスがある意味で、客観的、現実的、物理的であるということである。けれども実際には、アフォーダンスは客観的特性でも主観的特性でもない。あるいはそう考えたければその両方であるかもしれない。アフォーダンスは、主観的客観的の二分法の範囲を超えており、二分法の不適切さを我々に理解させる助けとなる。それは環境の事実であり、同様に行動の事実でもある。それは物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもないのである。アフォーダンスは、環境に対する、そして観察者に対する両方の道を指示している(★28)。
我々は我々が住んでいる世界によって作られたのであり、環境が持っている可能性と動物が生命を雑持する方法は、不可分に結びついている。我々はつねにすでに、この生態学的な環境に被投されているということだ。環境は、動物がとり得る行為をその中に含んでいる。人間はある限度内で環境のアフォーダンスを変えることができるが、それでもなお人間は、自分が置かれている状況の産物なのだとギブソンは言う。これはまた、自然界の秩序と精神の秩序の間には同型性があるという、レヴィ゠ストロースの発見にも通じているように思われる。
ギブソンは、「アフォーダンスの理論は、価値と意味に関する既存の理論と著しくかけ離れている。アフォーダンスの理論は、価値とは何か、意味とは何かの新しい定義から始まる」と言っている。価値や意味というものは、通常、動物が認知プロセスを経た結果として主観的に生じるものと思われているが、アフォーダンス理論においては、それらは直接「知覚」するものである。我々は、物の色や形を知覚するのと同列に、意味や価値を知覚している。そしてそれは主観と客観にまたがっている。環境は我々が思っている以上に我々の一部であるし、我々は我々が思っている以上に環境の一部なのだ。ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルは、次のように言う。
すなわち、わたしたちの感覚はけっして主観的なものではない、ということです。わたしたちの感覚は、わたしたちの皮膚のしたに、あるいは皮膚の表面に挿入された添加物ではありません。むしろ感覚とは客観的な構造であって、わたしたちのほうがそのなかに存在しているのです(★29)。
- ★28 ジェイムズ・ジェローム・ギブソン『生態学的視覚論』1985,サイエンス社
- ★29 マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』2018,講談社