『モードレスデザイン』- 10 解放のためのデザイン – ろばの歩み より
サッチマンによれば、いかにプランがなされても、目的的行為はつねに、状況的行為(situated actions)なのだという。状況的行為とは、具体的なコンテクストの中でとられる行為のことである。我々は皆、トラック島の航海者のように行動している。なぜなら、我々の行為の状況は決して完全には予想できないし、それらは絶えず我々の周りで変化し続けているからである。我々の行為は、体系立ったものであっても、決して認知科学が提起するような強い意味ではプランされていないとサッチマンは言う。むしろプランは、その場の判断による活動への弱いリソースなのである。ヨーロッパの文化では、行為の合理性について説明を強いられた時にプランが注目される。しかし事前のプランは必然的に曖味なものであり、それは実際には行為を思い返す段階で再構成されるのだという。またプランに従ったものと見做された行為だけが優先され、特殊性を持つ状況的行為は組織的に取り除かれるのだという。
認知科学の領域では、プランの分析と統合が行為の研究を構成しており、その計算論的モデルを構築するために、プランの論理性が重視される。しかし、人間の行為の研究者がトラック島の航海者を無視することは危険であるとサッチマンは言う。
ヨーロッパの航海者がいかに航海するかということがわかったにせよ、それがいかにプランに従ったものであろうとプランによらないものであろうと、行為の本質的特徴は状況に埋め込まれたものなのである。したがって、トラック島民のシステムを研究し、それを記述する方法を見いだすことは私たちにとって義務である(★24)。
サッチマンが言うように、たとえプランが意識されていたとしても、すべての目的的行為にはその場の判断が伴っているだろう。また、トラック諸島の民であっても、過去の経験に裏づけられた何らかの原理的な行動パターンを共有しているだろう。トラック島の航海や、曲がりくねった道を行く人々の歩みが、目的主義的な行為の仕方と異なるのは、目標までの経路の組み立て方というより、目標の持ち方である。コルビュジエが言うように、ろばの歩みにはそもそも固定的な目標というものがおそらくない。何らかの目的意識があったとしても、それは歩みを進める上で、踏みしめる大地の形や風が運んでくる草の匂いに影響されて、容易にうつろう。だから、良いプランや悪いプラン、成功したプランや失敗したプラン、といった合目的性の評価は意味を持たない。そこにあるのは、いまここに知覚する環境とコレスポンドする、モードレスな行為の創造である。
目標へ向かう人間の創造的行動はモードレスである。道具は、そのような行動が作られる環境として、モードレスでなければならない。そして道具を作るデザイナーは、そのような形が作られる環境として、やはりモードレスでなければならない。デザインの過程において、次の一手は、その時点のデザインの状態から逐次判断される。使用者が自由に使える道具のモードレス性は、それを自由にデザインしたデザイナーのモードレス性である。使用者が自らの目標をモードレスに定められる道具を作るには、デザイナーは、権威者のモーダルなデザイン認識に異を唱え、ままならない素材たちの心にモードレスに応答しなければならない。つまり、デザインという人間の営みを自然に実践すれば、それはモードレスなものとなる。人々のモードレスな活動のために、モードレスな人々が、モードレスなデザイン活動によって、モードレスな道具を作るということ。存在論的デザインにおいては、世界も、道具も、人間も、モードレスに包摂し合うのである。
デザインの仕方は自由だ。自由でなければならない。テリー・ウィノグラードは、デザインすることとは形式的なデザイン理論を応用することではないと言っている(★25)。システマティックな原則や方法論は、デザインプロセスのある時期においては適切かもしれないが、数学や伝統的なエンジニアリングに応用されるような合理的生成理論に相当する効果的なものは、何もない。デザインに対する意識は、今でも本能や暗黙の知識、そして勘に依っているのだとウィノグラードは言う。
デザインとは生来複雑なものである。デザイナーがどう決断しても、そこには意図した結果と意図しない結果が生まれるのだ。デザインは、注意深く計画し、それを実行するプロセスではなく、相手、つまりデザインされているものが、予想外の中断や寄与を生むような対話なのである。デザイナーは、そこに起こりつつあるデザインに耳を傾け、それを形作っていくのだ(★25)。
- ★24 ルーシー・A.サッチマン『プランと状況的行為」1999,産業図書
- ★25 テリー・ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち』2002,桐原書店