ソフトウェアはなぜ〈モードレス〉であるべきなのか、使いやすさとはいったいどこからくるのか──
人の自由と創造力を奪う使役的なモードを解体せよ。オブジェクト指向UIデザインの第一人者が放つ、ソフトウェアの道具論。
『モードレスデザイン 意味空間の創造』
ビー・エヌ・エヌ
インターフェースのモードというのは、作り手が考える以上に罪深い。これは人権に関わる問題だ。モーダルなインターフェースは、人の行動を決まった順序の中に閉じ込め、コントロールしようとする。道具を提供しているように見せて、人を道具にしているのである。だからデザイナーはいつも、できる限り操作をモードレスにする努力をしなければならない。これはインターフェースデザイナーにとっての第一の倫理規範だろう。
我々は視点を転回しなければならない。人が道具を作ったのではく、道具が人を作った。これはひとつの事実である。物の側から世界を見る。オブジェクトになる。在るがままのそれを見つけて現す。そうすれば人は、生まれながらの好奇心や見立ての能力によって解釈し、工夫をこらして、自らの意味空間を創造するだろう。しかしこうした態度は太陽中心説がそうであったように傍流なものと見做される。周囲の意識と完全に対立することもある。頭がおかしいと思われるかもしれない。モードレスデザインを実践するには、だから覚悟がいる。
たしかにデザインは、使用者が持っている要求を満たし、問題を解決することもある。しかし要求を特定することがデザインの行為と直接関係しているわけではない。要求からデザインを規定することはできないし、できたとしても、それが問題を解決するとは限らない。要求の特定はデザインを評価するためのひとつの試みにすぎず、むしろデザインが要求の捉え方を提出するのである。
粘土の作品はそれを捏ねた手とその動きの記録である。粘土と手が合わさって同時にひとつになっている。そして両者のゆらぎが不可分に込められている。だからその行為はプロセスに還元できない。形はプロセスの先にあるのではなく、はじめから粘土とそれを捏ねる手の中にあったのである。そのような観点からすれば、物を作るという行為は基本的に理論化できないものだと言える。デザインの成り立ちを因果関係に回収することはできない。
デザイン理論が提唱する工業的なアプローチにおいては、使用者に対して、サービスとしての製品をただ消費するだけの役割を与えている。使用者というものを文字どおり、使われる製品に対立する存在として想定しているのである。しかし単なる事物的なもの(手前的な存在)が道具として完成するのはその使用においてである。道具を使うというのはそれで何かを作るということだから、使用者は使用者であると同時にデザイナーなのである。
もしインターフェースが全くの無抵抗であれば、我々はそもそも世界の形を知り得ないし、我々自身を感じることもできない。それはただ宇宙に溶けた無である。インターフェースを作るというのは、何かに触れようとする指にそっと触れ返すこと。それによってその者自身を世界の中に感じとれるようにすることである。道具というものが、世界との関わり方、世界というものに対する我々の認識を鏡のように反映するなら、そのインターフェースこそが、我々にとっての世界であり、同時に我々自身の投影となる。
仕事領域についての分析結果から関心の対象が特定されたとしても、それらが動詞の引数として現れるだけであればパラダイムはシフトしない。オブジェクト指向の構文論的転回とは、まずオブジェクトが開示されることで起こる。サブジェクトはオブジェクト同士の間に可能性としてのみ仮定され得る。操作の意味はつねに遅延的に定まる。ヒュームが言うように、出来事と出来事の繋がりは我々の体験的な理解の習慣から成り、過去と未来の間に必然的な関係はない。オブジェクティブなデザインにあるのは、この遅延性である。
ヒューマンインターフェースをモードレスにするというのは、操作がモードを持たないようにするということだが、それはデザインの過程で混入するモードを丁寧に取り除き続けるということだ。そして、フィードバック、可逆性、一貫性、同時性などを丁寧に加えていくということである。ただし、モードというサブジェクティブな制約が加えられていること自体が不自然なことなのだから、モードレスネスの積極性とは単に対象をできるだけ自然な状態を保つということに過ぎない。
自分の身の回りで道具が十分に役立っている状況を思い返すと、それは道具が自分の使い方に合わせて作られた時ではなく、自分が道具に合わせて振る舞えるようになった時だと気づく。自分が道具に同調しはじめると、道具は手許で直接呼応するようになる。要求とデザインの間に直接の関係はない。我々はただそこに在るものを活用して、できることをするだけだ。あたりまえだが、要求が満たされるかどうかは、要求によってではなく、道具によって決まる。道具が要求を承認するのである。
OOP や OOUI は管理主義的なものに対するカウンターとして生まれ、ソフトウェアを固定化されたコンテクストから解放した。しかし「使用者の行為を管理する」というシステムオーナーの欲求は変わることがない。現在の経験主義的なデザイン手法の多くは、相変わらずタスク偏重の官僚的な施策である。もちろんコンテクストを意識しないデザインなどないし、用途に合わない道具も無意味である。しかし、優れた道具というのは多様なコンテクストを受容するのであって、固定するのではない。真に意義深い道具は、使用者自身がその利用コンテクストを決定できるものでなければならない。
道具に対する使役的な態度は、多かれ少なかれ記号接地問題を生じさせる。単純な指示で複雑なことを道具にさせようとすればするほど、うまく機能するかどうかは確率論的にしか予測できなくなる。道具の直接性とは、上手く使えば上手い結果を得るし、下手に使えば下手な結果を得るという、作用の自明性にある。エージェントシステムが完全な直接性を持つのは、使用者がシステムの動作原理をすべて知っている時だけである。
創造的な活動を詳しく内省すれば、それは線形的なものにはなり得ないと気づく。問題発見と解法発見の同時性は、工学的な計画可能性を拒否している。創造のプロセスを突き詰めると、創造の非プロセス性に行き当たってしまうのである。使用者の了解は行為の中で生まれるのだから、作業に対する不適合について、問題と解法を別々に定義することはできない。また複雑に釣り合っているデザイン要素を個別に評価することもできない。
広い意味でデザイナーは、物事の新しい意味を提案する存在だ。そのために、ひとつひとつを逆に考えてみる癖をつける必要がある。因果関係を疑い、目的と手段の関係を捉え直す。異なる視点から現状の構造的バイアスを見抜き、それを解体していく。そのようにして意味の転回を起こすのだ。アイデアを構造の中に統合し現実と接地させるには、現象から観念を抽象して原理化する必要がある。しかしそれが過ぎて抽象的にしか物事を考えられないのでは形を得られない。創造する思考はつねに抽象と具象を往還しながらその中間点を目指す。