FPS vs RPG

僕はゲーマーではありませんが、FPS は結構好きで、特に「Marathon」シリーズと「Call of Duty」シリーズにはかなりハマって、それぞれ数年間やり込みました。もちろんネットワーク対戦です。その反面、RPG やシミュレーションもの、シューティングでも第三者視点のものにはあまり面白さを感じませんでした。僕はガンダムに乗りたいのであって、ガンダムの背中を眺めたいのではないのです。

僕が FPS を好きなのは、それがモードレスでありリアルタイムだからです。スクリーンに映る世界は僕の視界そのものであり、僕がとったほんの小さな動きも、相手を含むその世界全体に何らかの影響を及ぼします。僕は、スコープの向こうでこちらに照準を合わせる敵と、というかその敵を操作する誰かと、目が合うのを感じることができます。不意に敵に遭遇した時、引き金を引くか逃げるかの判断は瞬間的になされなければいけません。敵は待ってくれませんし、僕も待ちません。ステージ上の全員が同じ時間と空間を共有しているのです。

もうひとつのポイントは、バーチャルな世界にいる自分のアバターのスキルは、そのまま僕自身のスキルだということです。何か特定の手続きを踏むことで勝手に能力が上がったりはしません。僕の射った弾が当たるかどうかは、純粋に僕の状況判断とマウス操作のスキルにかかっているのです。だからそのアバターは、感覚的には、僕の分身ではなく僕自身です。視覚と聴覚に限定されているとはいえ、僕の意識はほぼ100パーセント没入し、その世界と直接インタラクトしているのです。そうでないとやられてしまうし。

FPS では、戦況を読んで戦術を考えることはあっても、操作を計画することはありません。状況は無限にあり、操作を手続き的に計画することに意味がないからです。今何をするかは、その場その場の状況から逐次判断しなければならないのです。

なんだかこれと同じようなことを前にグラフィックソフトの話で書きましたね。まあそういうことです。

さて、ここに、ヨーロッパの包丁と日本の包丁を比較した興味深い記事があります。両者の比較から日本人の美意識を定義するのは少し乱暴な気がしますが、デザインというものが目指す大きなふたつの方向性を示唆しているのは確かでしょう。以下は引用。

一つはドイツのヘンケル製。人間工学的によく出来ていて大変使いやすい。これが西洋流のシンプル。握ると自然に親指の位置も決まる。しかし、超絶技術を持つ日本料理の板前はグリップに凹凸のない包丁を使う。平板な把手は貧しさや未成熟ではない。むしろその逆である。どこを持ってもよいという完全なプレーンさが、板前のあらゆる技術を受け入れる豊かさになる。

この日本の包丁のプレーンさが、僕には強烈にかっこよく感じられるのです。

T字型カミソリの宣伝では、首振り3枚刃でどんな顔にもフィットしてよく剃れるとか何とか言っていますが、プロの理髪師はそんなもの使わないのです。固定の一枚刃です。というか、T字型安全カミソリではなく、フリップ式で刃が剥き出しの危険カミソリを使いますね。T字型にしても剥き出し型にしても、勝手に刃の角度が変わってしまったら、力の加減ができないから思い通りに剃れないのです。最高の結果を出すカミソリは、切れ味だけを提供し、力や角度の調節については人が提供する余地を残しておくべきなのです。

このような道具は、ユーザーに相応のスキルを要求します。だからもしユーザーがそれをうまく使えずに目的を達成できないとしても、それは道具のせいでもユーザーのせいでもないのです。

前にオブジェクト指向のところでこう書きました。「僕が特に重要だと考えたのは、文脈をユーザーに解放するということでした。システムは自身の機能を体現するだけで、使い方をユーザーに指示するべきではないと思いました。ある道具が役に立たないとすれば、それはその道具が状況に適していないだけで、ユーザーの使い方が悪いのではないはずです。物それ自身がありのままの状態で状況とのマッチングを待っている、というのが、僕の解釈したオブジェクト指向の世界でした。」

これはそのまま、板前の和包丁の価値感に通じています。

たしかブラックジャックの本間先生がこんなことを言っていました。「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね。」あるいは、どこかのお百姓さんの言葉、「わしらは水とちょっとの肥料をやってるに過ぎん。育つ力は種自体の中にあるんじゃ。」というのを思い出します。

デザインが人の仕事を決めるのではなく、人が自分の仕事に合うデザインを選ぶのです。そこで選ばれるためにデザインは、道具自体をモーダルなコンテクストから解放する必要があるのです。

以下は僕が一番気に入っているジェフラスキンの言葉です。

作業に対するニーズというものがユーザーごとに異なっているとしても、ユーザー集団は多くの一般的な心理属性を共有しているのです。つまりインターフェースデザイナーは、アプリケーションの調査や個人差を埋める作業を始める前に、全人類が共通して持っているインターフェースデザインに対する要求を活用して、自らの作業量を低減させることができるのです。

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