『モードレスデザイン』- 8 道具の純粋さ – パッセンジャーとドライバー より
1943年、デンマークの造園家であるカール・テオドール・ソーレンセンは、コペンハーゲンに「エムドラップがらくた遊戯場(Skrammellegepladsen Emdrup/ Emdrup Junk Playground)」を作った。これは、木材、古タイヤ、大工道具などが置かれた建築現場のような広場で、子供たちはそこにあるものを自由に使い、好き勝手に小屋などを作ったり壊したりして遊ぶことができた。ソーレンセンは長年の観察から、子供たちは良く備された公園よりも、がらくたがころがった廃屋や鉄屑置場で遊ぶことを好み、そこで見つけたもので自由に遊びを発明する、ということを知っていたのである。この遊戯場は評判となり、いわゆる「冒険遊戯場(adventure playground)」が世界中に作られるきっかけのひとつになった。
イギリスのアナキスト、コリン・ウォードによれば、そもそも子供の遊戯場を作る必要というのは、現代の高密度都市生活と高速交通から生まれたものだという(★11)。この必要に対する権威主義的な対応は、ブランコやシーソーなどをしつらえることである。それらはある程度はおもしろいが、子供たちの想像や構築の努力を呼び起こすことはない。自分で何かを見つけたり、互いに協力するといった活動に組み込まれることがないのだという。ブランコやシーソーの使い道はひとつしかなく、空想も、腕前を伸ばすことも、大人の活動を真似ることも叶えられず、知的な努力や身体的な努力はほとんど求められない。ジャングルジムや遊戯彫刻などの抽象物体は少しましだが、それらもまた限られた年齢枠や限られた活動領域に応ずるものであり、使い手よりも作り手の好みに従って用意されている。だから子供たちが街路や建築現場などの方により興味を持つことは驚くにあたらないのだとウォードは言う。現代の都市では、すべての土地は工業または商業に利用され、草むらは囲い込まれ、小川や窪地は埋め立てられている。そのような中でも、子供たちのためには従来以上に多くの設備が用意されているという反論がある。それはそのとおりだが、しかし、それが一番いけないことなのだという。都市で暮らす子供たちは科学技術の驚異に満ちた世界でいろいろな物を見て感心するかもしれないが、本当はもっと何かを自分の手の中に握り、自分で何かを創り、創り変えたいと望んでいる。
優れた冒険遊戯場は、破壊と生成の連続過程の中にあるのだという。たとえばミネアポリスに作られた「仕事場」では、最初、どの子供も自分のことしか考えていなかった。用意されていた中古木材や道具を、彼らは独り占めしようと奪い合い、それらを自分の隠し場所にため込んだ。その結果、広場には一枚の板もなくなり、作りかけの小屋は襲撃された。言い争いが起こり、立ち去る者も現れた。しかし次の日になると、ほとんどの子供は自然に集まって修復作業を始めた。道具も隠し場所から集められた。個人主義者だった子供たちが互いに誘い合い、一緒に組んでやろうと言い出した。新しく補給の材木が着いた頃には、ひとつの共同体が生まれていた。遊戯場を管理する大人が介入してルールを当てはめずとも、子供たちは自分たちで秩序を回復したのだという。それは決して明文化されたような秩序ではない。無秩序の中に現れた自然な秩序である。
冒険遊戯場は、いわばアナーキーの寓話、自由社会のミニチュアであって、同じ緊張と変じてやまぬ調和とを、同じ多様性と自発性とを、同じく強制なき協働と発展と、そして個人の特質と共同体意識との解放を具備しているのにひきかえ、その主たる価値が競争と物欲にある社会ではこうしたものは眠りこんでしまっているのだ(★11)。
ウォードは、子供の遊びにとって最も理想的な条件、つまり、破壊から発見を経て創造へと自ら選び取ることは、大人の社会形成においても重要だと考える。物を作ること、組み立て、組み替え、繕い、仕立て直すこと。そうした衝動は、日常の労働生活や商業的な娯楽産業に埋もれてしまいがちである。しかし一方で、さまざまな分野で DIY 運動が盛んになっているように、我々の中にあるブリコルールとしての気質はつねにその発現機会を求めている。そうしたブリコラージュを促し、広げるものとして、モードレスデザインは位置づけられるだろう。
- ★11 コリン・ウォード『現代のアナキズム』1977,人文書院