Modeless Design Advent Calendar 2025

ユーザーイリュージョン

December 12, 2025

『モードレスデザイン』- 4 界面と表象 – ソフトウェアのソフト性 より

GUI では、スクリーンに見えているものが操作の対象であり、そこで行っていることの意味はそこに見えているものによって表される。作業のための特殊なモデルを頭の中に構築する必要はほとんどない。その意味でコンピューターはもう存在しない。「プログラムは思った通りに動くのではなく書いたとおりに動く」という言葉がある。つまりプログラマーは自分が何を書いたのかを知るためにプログラムを実行する。しかし GUI は、自分が思ったことを自分でやってみせるパラダイムである。解釈が先にあり、後には何もない。それがユーザーイリュージョンだ。GUI によるパラダイムの変化は、操作の仕方やインターフェースの表現方法のバリエーションではなく、コンピューターそのものが消えるという存在論的なものだったのである。

使用者の前からコンピューターが消えて、イディオム(成句)だけが残る。それは紙やペンのような我々がすでに知っているものの隠喩を含むが、全体としては、使用者自身がそこにある視覚的なマークに直接触れて、その反応の仕方を確かめることで、新しい環境世界として立ち上がってくる。そうしたユーザーイリュージョンは、コンピューティングパワーによって実現される。たとえばイメージの描画速度が1秒間に2フレームから20フレームになれば、連続的な動きとして知覚できるようになる。一桁の違いが、主観的には非常に大きな違いとなる。ただしその主観的なイリュージョンはコンピューターそのものの構成とは関係がない。時間の概念が時計の構成と無関係であるのと同じだ。

そもそも我々が日常的に経験しているものはすべて、現象学的な意味でユーザーイリュージョンなのだと言える。トール・ノーレットランダーシュによれば、我々が見たり注意したり感じたり経験したりする世界は、すべて錯覚なのだと言っている(★3)。我々の周りの世界には色も音も匂いもない。それらは我々が経験するものだ。だからといって世界が無いということではない。世界は実際にあるが、それはただ存在するのみである。人が経験しない限り、世界には何の属性もない。私が目の前に見ている光景は、私の感覚器官に届いたものと同一ではない。それはある種のシミュレーションであり、解釈なのである。

ノーレットランダーシュはさらに、ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するのにふさわしいメタファーなのだと言う。我々の意識は、自己と世界のユーザーイリュージョンである。意識は、自分が影響を及ぼせる世界の諸側面と、意識が影響を及ぼせる自己の一部の、ユーザーイリュージョンなのである。このユーザーイリュージョンは自分独自の自己の地図であり、自分がこの世界に関与する可能性を示している。意識というものが、私にとっての私自身のユーザーイリュージョンなのだとすれば、意識にとってのユーザーはまさに私自身である。そしてそのイリュージョンは、使われる側ではなく、使う側の視野を反映しているはずである。その結果、意識というイリュージョンは、「私」という名のユーザーとともに機能することになる。ノーレットランダーシュは次のように言う。

〈私〉の経験では、行動するのは〈私〉ということになる。感じるのも〈私〉、考えるのも〈私〉だ。だが、実際それをしているのは〈自分〉だ。私は、私自身の、私にとってのユーザーイリューションなのだ(★3)。

我々がコンピューターの中に流れる電気信号の内容をいちいち気にかけないように、「私」も私自身の中に流れる血液の成分をいちいち気にかけることはない。ソフトウェアの構成がどのようにイリュージョンを生み出しているのかを気にしないように、「私」の中で「私」というイリュージョンがどのように生み出されているのかを気にすることはない。我々が自分について関心を寄せる時、その対象となっているのは、自分自身ではなく、「私」というイリュージョンなのである。

世界の成り立ちを超越論的に捉えるなら、自己の成り立ちも同じモデルの一環として捉えざるを得ないだろう。ウンベルト・マトゥラーチは、生命システムの自己産出的な性質を研究する中で、そうしたある種の宇宙論が、あらゆるものの見方や理解に浸透したと言っている。

すなわち物質は、比喩的に言えば、精神の創造物(語りの領域における観察者の存在様式)であり、精神はそれ自身が創造したものの創造物であるという発見である。これは逆説ではなく、認知の領域における私たちの存在を表現しているのであり、そこでは認知の内容は認知そのものに他ならない。それ以上を語ることは不可能である(★4)。

行動の主体として経験される自分は、錯覚である。そしてその錯覚は、世界全体の錯覚と同じ成分で構成されている。GUI がもたらしている錯覚も同様である。つまり、ソフトウェアによって生み出されるユーザーイリュージョンは、自分自身、世界自体と同程度に、リアルなのである。


  • ★3 トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』2002,紀伊國屋書店
  • ★4 H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ『オートポイエーシス』1991,国文社